鉛筆なめなめの日々

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習ってない漢字で名前を書いてはいけない?

小学校教育において、「自分の名前を習っていない漢字を使って書いてはいけない」という指導をする先生がいて問題となっているとの事。
「使わなくてよい」ではなくて「使ってはいけない」というのが問題だ。
僕は少なくても、これには2つの問題があると思う。
一つは学力的な問題。
生徒が学んだ事を使わせないと言う、学力にブレーキをかけるという事。
こんな事をやっておいて、「大学生にもなって漢字も読めない」とか言い出す大人には大きな問題がある。
小学校の算数において方程式を使わないというのには、ある面で意味はあると思う。
しかし使える漢字を使わせなということは、何も意味がない。
教えていない事は使ってはいけないという教師のエゴしか感じられない。
もう一つは生徒の名前をちゃんと書かせないという人権侵害の問題。
習ってない字を「使わなくてよい」のではなく、習っていないからといって正式な名前を書いてはいけないというのは、名前というものに対する敬意が全く感じられない。
そもそも日本語というのは、表音文字と表意文字を両方持つ世界でも稀な言語。
名前というのは、親が子供に与える最初の贈り物であり、色々な思いを込めて名前を付けるはずだ。
漢字を使う名前にはその漢字に意味があり、ひらがな、カタカナを使う名前にはそれを使う事に意味がある。
それを全く無視して使わせないというのは、生徒に対する人権侵害であり、日本の文化に対する冒涜であり、ましてや国語を教える資格などないと僕は考える。
極端な例かもしれないが、「習っていない漢字を使わせない」という事は、カンボジアで大虐殺をおこなったポルポトと根底にある考えは変わらないと思う。
ポルポトは国民は単純な労働力であるべきと考え、知恵をつける事による反政府運動を恐れて知識人の虐殺を繰り返した。
小学校教師が生徒を殺したりはしないだろうが、根底にあるのは愚民化政策、原始化政策と何ら変わりはない。
生徒が親に名付けられた名前の否定は、パーソナリティーの否定であり、言う事をきく労働力としてしか考えてない思想と変わりはなく、教えてない事をしてはけないというのはまさに支配思想と何ら変わりはない。
これは大げさすぎるかもしれない。
しかし、僕はこの問題は本質的な面では同質であり、間違った全体主義には警鐘をならしていきたいと思う。
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